2023.01.12
衣服で安全と健康と快適さを目指す
三重県工業研究所
快適さの追求
人間工学の視点から、人にとっての快適性をどう確保するか、どう高めるかという研究を行っています。人間工学は、機械・装置・道具や人間の作業環境を、人間にとって使い勝手が良いように設計・調整するための学問です。
一口に快適性といっても、動きやすい、寛げる、疲れない等、快適性を測る基準は様々です。快適性を実現した道具も、どんな基準で考えるかで異なったものになります。
椅子を例にとると、ある人にとって、快適な椅子というのは、体重がうまく分散して座り心地が良い椅子ですが、別の人にとっては、座面の角度に工夫があって、椅子から立ち上がりやすい椅子が快適な椅子になります。
研究の手法として、一貫して重視しているのは、ヒトの測定です。体温とか脈拍とかヒトが発する様々な信号を正確に測ることに配意して、研究に取り組んできました。
研究を取り巻く環境の変化
近年、研究を取り巻く環境に変化が起きています。
一つめは、測定技術の進歩です。
人体に取り付けるセンサーが小型化して、ワイヤレスになったことで、測定できる場面が広がり、測定精度が格段に向上しました。
例えば、心電図を取ろうと思ったら、体に電極を付けてケーブルに繋がなければならなかったのが、今はケーブル無しで測かることができるようになりました。このため、以前なら、ケーブル付きなので、ベッドに横たわったり、椅子に座ったりした状態で、今、落ち着いているか、ストレスがかかっていないかくらいしか測れなかったのが、簡易に運動中のデータを採ることができるようになったわけです。
二つめは、気候の変化です。
特に、夏の暑さが関心を集めるようになりました。夏の暑さは、もともと一般の人にとっての関心事ですが、真夏に東京オリンピックが開催されるので、マラソンのコース上で暑さ指数(WBGT)を測るというようなことも、より関心を高めるきっかけになったのではないでしょうか。
実際、夏の気温が上がっていることはデータからも明らかですが、気温が上がっても生活はしていかないといけない、働かないといけない、そこで暑熱環境下で、いかに安全に健康に活動できるか、働けるかということに関心が集まり、様々な研究機関や企業等によって研究が進められています。
アスリートについて言えば、夏でも本来のパフォーマンスを発揮できるように、それをウェアのほうからサポートしていくというのが、今、スポーツウェア業界が最も力を注いでいる分野のひとつです。
冷やすというアプローチ
安全に健康にということを追求するのであれば、休憩の取り方とか、水分の補給方法とか様々なアプローチ方法が考えられますが、工業研究所が取り組んでいるのは、体を冷やすことです。
快適性を追求する中で、センサーのワイヤレス化、夏の気温の上昇があって、今は、人を冷やすところに研究の焦点が絞られてきています。人体を冷やして、その効果を生体信号で評価しています。
なぜ、冷やすことを選んだかというと、暑さに対して人の健康と安全を守るには、体内の熱を逃すことが有効でその方法として保冷剤を選択したことが一つ、それから、県内にその保冷剤メーカーがあったことがもう一つの理由です。
松阪市に三重化学工業という保冷材のメーカーがあります。防寒用手袋のメーカーとしても有名ですが、保冷材に関しては、食品用から医療用まで、幅広く製造しています。
この会社が保冷材を医療分野に展開する時に、どれくらい冷やせるかというので、工業研究所が測定に関わり、客観的なデータを取るお手伝いをしていました。そのご縁で、保冷材に着目しました。
人体を冷やした結果、何が明らかになったかというと、上がっていた心拍数が落ちているとか、上がっていた体温が下がっているとか、あらかじめ想定された結果をきちんとデータで確認できたということです。特別、意外な結果というのはありません。
しかし、一般の方が当たり前だと思うことでも、それを単に感覚的に言うか、データの裏付けとともに客観的に示すかでは、意味が違います。
人が出す生体信号を捉える
研究の一例として、農業用ハウス内での作業者の心電図、体温等の測定が挙げられます。太陽の光が差し込むハウス内は高温多湿になり、大変厳しい作業環境になります。当然、熱中症などの危険性が高まるわけですが、作業をしている人が自分の体調の異変に気付く前に、体には異変を知らせる何らかの兆候が出ています。その兆候を生体信号として捉え、安全確保に繋げます。
このような取組はすでに繊維メーカー等で実用化されている技術です。
他にも、兵庫県では、ダイバーのウエットスーツの下にセンサーを入れて、ダイビング中の心電図を測っています。ダイバーには自覚がない状態でも、心拍数等で異常がみられたら、その人に伝えて、水中での事故とか危険な状況を回避できるようなシステムを検討しています。
熱中症も同じことです。センサーで生体信号を把握して、心拍数等で異常がみられれば、本人に注意喚起できるし、救急車を呼んだりできます。農業用ハウスだとか、建築現場の作業員では、安全管理の一環として取り入れられています。
冷やすことの効果を科学的に示す
工業研究所が注力しているのは、体のどの部位を、いつどのように冷やすことが、快適さの確保につながるかを明らかにすることです。本人がどう感じているかだけでなく、生体信号がどう変化するかを見ることで、快適さを科学的に示すことが出来ます。
研究結果をもとに、どのように冷やすと体に負担が少ないですよといった事実関係をできるだけ数多く明らかにしたいと考えています。
研究の課題とこれからの方向
繊維業界には、「衣服内気候」という言葉があります。
皮膚と服の間が「衣服内環境」で、衣服内環境における温度と湿度で決定されるのが、衣服内気候です。衣服内気候で、どうなれば快適な領域かというのは明らかになっています。また、身体の部位によって、衣服内環境は異なります。
温熱マネキン(サーマルマネキン)というものがあります。
人と同様に体の表面から発熱するだけでなく、いまは、精度が上がって、模擬的に汗もかくので、このサーマルマネキンに服を着せることで、衣服内気候を測定して、服の性能を測ることが出来ます。
実は、農業用ハウスで作業中のデータを取った際、データにばらつきが出て、思うような結果が得られなかったことがありました。
生身の人間だと、体形や体質等が一人ずつ異なります。さらに、ハウスの中での作業中も個々の行動が異なってきます。例えば、シャツの前ボタンを外して通気が良くなるとか、作業の強度が異なったりして、それがデータに影響します。
そこで、農業用ハウス内を模擬した環境にサーマルマネキンを置き、保冷剤をいくつどの部位に着けるとどれくらい冷えているかというデータも取ろうとしています。データとしては、サーマルマネキンから取ったデータの方が安定していて、作業従事者の快適性を確保するにはどうすればよいかという結論を導きやすくなっています。
これに加えて、人の健康面での影響を調べるのであれば、表面体温ではなく、深部体温を測ることも重要です。人は恒温動物なので、体温調節の結果は深部体温に反映されます。
サーマルマネキンは衣服内気候を測定することが目的であるため表面体温しか設定がありません。今後は、ヒトの深部体温の測定に取り組んでいく必要があります。
ヒトの生体信号としては、心拍数、深部体温の他、脳波、血流、酸素飽和度等様々な指標があります。これらの多くの指標も検討しながら、研究は続けていくことになります。
より優れた衣服を目指して
夏の暑さというのは、これからも続くでしょうし、より厳しい環境になっていくことが想定されます。
研究のゴールとして目指しているのは、そのような環境のもとで、人が身に着けるための、より効果的な保冷材や、人にとって負担の少ない衣服を開発することです。
衣服内気候を快適にするために、アパレルメーカーも様々な工夫をしていますが、着ることで人の健康を維持するような、一歩進んだ衣服が出来ないかと考えています。