2022.02.03
暑さが酒造りに影響する
三重県工業研究所
日本酒の造り方
日本酒を造る際の作業工程はとても細かく分かれており、仕組みも複雑です。
その複雑さの一端を、作業工程の一つである発酵を例にとって説明します。
日本酒の原料である米はブドウ糖分を含んでいません。アルコールを作り出すためには、まず、麹によって米のデンプンをブドウ糖に変える必要があります。酵母と呼ばれる微生物が、このブドウ糖をアルコールに変えます。
デンプンをブドウ糖に変える過程と、ブドウ糖をアルコールに変える過程は、いずれも発酵と呼ばれます。この二つの発酵は、一つ目の発酵が完全に終わって、二つ目に進むのではありません。二つの発酵が並行して進行します。
この発酵のバランスは、日を追って発酵の状態が変化するので、それに合わせて作業工程が細かく分かれています。発酵を順調に進めるためには、酒蔵内の繊細な温度管理も欠かせません。
気候の変化と米への影響
同じ品種の米を、暖かい地域で生育した場合と、寒い地域で生育した場合では、デンプンの質自体が大きく変わります。
デンプンには、アミロースとアミロペクチンの二つの成分があります。
暖かい地域と寒い地域で育つのでは、その二種類の占める割合が違ってきます。また、それぞれの分子構造も変わってきます。
今、気候が温暖化する方向に向かって進んでいると仮定すると、全体的に、暖かい地域で生育した時の性質が顕著になってきます。
日本酒に関しては、このデンプンの質の変化が酒造りに大きな影響を及ぼします。変化に合わせた酒造技術が必要になってきます。
代表的な酒米の品種に山田錦というのがあります。実際には、北海道では山田錦は穫れないのですが、もし、九州で栽培した山田錦と北海道で栽培した山田錦があったとして、すべて同じ条件で醸造したとしたら、九州でとれたお米で造った酒はかなり薄い酒になります。北海道でとれたお米で造った酒は濃い酒になります。
だんだん気候が暖かくなると、濃いお酒は造りづらくなってきて、薄い酒ばかりになるということです。
濃い酒、薄い酒
濃い酒と薄い酒、どちらが良い酒かというのは、簡単には答えられません。
なぜかというと、良い酒の定義は一つだけではないからです。蔵元が造ろうとする酒の性質は、蔵元ごとに異なります。また、同じ蔵元であっても、複数の銘柄を造っている場合、銘柄ごとに目指す方向は異なるはずです。
大雑把な言い方をしてしまうと、薄い酒というのは、水を加えていないのに水っぽい酒です。ただし、薄い酒でも品質の良い酒はあり、酒造業界では、「きれいな酒」という言い方をします。品評会などでは、濃い酒よりも、むしろきれいな酒のほうが高い評価を受ける場合もあります。
溶ける米、溶けない米
秋に収穫を終えた米を手にした蔵元にとって、最大の関心事は、その米が溶けるか溶けないかです。溶ける米というのは、簡単に言うと、デンプンがブドウ糖に分解されやすい米です。
米に含まれるデンプンは、たくさんのブドウ糖が集まった高分子で、結晶状態になっています。この米を水と一緒に加熱すると、デンプンの結晶が融解します。言い換えれば水に溶けた状態に変化します。この変化を糊化と呼びます。
デンプンが糊化すると、麹から出るアミラーゼがデンプンを分解しやすくなります。
デンプンが分解されると、ブドウ糖ができます。このブドウ糖が酵母に取り込まれて、二つのことが起こります。一つは酵母自体が増えます。ブドウ糖は酵母にとっての栄養です。もう一つは、酵母の働きでアルコールの一種であるエタノールができます。
米が糊化するから、米から酒ができるわけです。
米のデンプンの老化、極端に溶けない米
糊化した米を放っておくと、米のデンプンは結晶に戻ります。これを米の「デンプンの老化」と呼びます。「老化」イコール「再結晶化」です。
溶ける米(糊化しやすい米)は、老化(再結晶化)も緩やかです。
老化しやすい米を使うとアミラーゼの作用が低下します。ブドウ糖の生産量も減ります。充分なブドウ糖が供給されないと、エタノールの生産量も少なくなります。その結果、薄い酒になります。
実は、その米が本当に溶けるか溶けないかは、仕込みをしなければわかりません。溶ける(と見込まれる)米でも、溶けない(と見込まれる)米でも、酒造りの職人である杜氏は、酒造りの過程の中で、その米の性質を慎重に見極めながら、技術を駆使して、目指す酒を造りだしていきます。
溶ける米で、きれいな酒を造ろうとする場合は、溶けすぎないように調整することもあります。溶けない米の場合はその逆で、溶けるような工夫を凝らします。
問題なのは、近年、極端に溶けない米が出てきていることです。技術ではカバーのしようのない、手の施しようのない米です。
これは、気候が温暖化していることの影響と言えるかも知れません。そういう米からは、文字どおり水っぽい酒しかできません。味が無いし、できる酒の量もすごく少なくなります。
工業研究所が開発した新しい技術
先ほど、溶ける米は、老化(再結晶化)が緩やかだと説明しましたが、実際のところはもう少し複雑です。
米に水を混ぜて暖めたら糊化します。より低い温度で糊化する米を、糊化しやすい米と推定しています。
糊化しやすい米かどうか調べて、糊化しやすければ老化もしにくいはずだから、溶ける米だというふうに予測するのが、これまで正しい方法だと言われてきました。
しかし、この方法では、予測どおりになる時もありますが、予測がはずれることも結構多いのです。結局のところ、糊化しやすい、しにくいというだけでは、デンプンの老化の進み方を正しく知るには不十分な方法だったわけです。酒を仕込んでみなければ、原料の米が溶けるか溶けないか判別できない理由もそこにあります。
三重県工業研究所では、デンプンの老化自体を指標にして、溶ける米か溶けない米かを判別する方法を新たに開発しました。
老化を評価する方法というのは、今までもありました。しかし、従来のやり方は、結果が出るまで、何十日も時間がかかりました。また、二つの米を比べて、どちらの老化が早いか遅いかの比較ができる程度で、数値によって、老化しやすさを客観的に判定するというようなことは出来にくかったのです。
当研究所が開発した米の溶解性予測技術は、従来の方法に比べると、正確性と迅速性は比べ物にならないくらい高くなっています。
技術の詳細については、説明を省略しますが、ご関心のある方は、関係の論文を参照してください。
酒造業界にあたえた大きなインパクト
この予測技術の開発の過程で、思いがけない事実が判明しました。
酒造業界では、主に寒い地域で育てた溶ける米を使えば、始めから終わりまでずっと溶けるということが言われていました。暖かい地域で育てた溶けない米は、始めからずっと溶けないと言われていました。これが通説でした。
ところが、溶けないと言われていた米の方が、最初だけは溶けてしまうことが明らかになったのです。途中から溶けない米が文字どおり溶けなくなって、溶ける米の溶け方が上回っていくのです。
その理由は、最初はどちらの米も老化があまり進んでいないということが一つ。
もう一つ、デンプンには、アミロペクチンとアミロースがあるのですが、寒い地域と暖かい地域では、デンプンの中のアミロペクチンとアミロースの割合が変わることが挙げられます。
暖かい地域で栽培したほうが、アミロペクチンの割合が少しだけ多くなります。アミロペクチンとアミロースの比率が、温かい地域だと8:2くらいなのが、寒い地域で造ると7.8:2.2とか、暖かい地域ではアミロペクチンが多少多くなります。アミラーゼは両方とも分解しますが、どちらかというと、アミロペクチンの方が分解されやすいのです。アミロペクチンが多いと分解が早く進むということです。
これは業界にとっては、ものすごくインパクトがあった発見でした。
実は、この実験結果と同じことを過去に経験した蔵元は、いくつもあったのです。自分のところの蔵で異常なことが起こっていると思って、あまり口外してこなかったようですが、異常ではなく、科学的な根拠に基づいて説明できるというのが分かったわけです。
酒の発酵を順調に進めるには、時間を追って細かな管理が必要ですが、特に初期の管理が極めて重要です。
新しい溶解性予測技術では、溶けるか溶けないかの判定だけでなく、仕込んだ米が、発酵の過程で、初期にどう反応して、中盤どうなって、後半どうなるかという予測までできます。ブドウ糖の濃度やアルコールの出方が時間の経過とともにどう変化するかという酒蔵技術の重要なところが予測できるのです。
新しい技術の実用化と普及
この技術は、三年くらい前から実用化しました。
三重県内でその年に採れたお米を工業研究所で確保して、地域毎に、この地域の米はこうだという形で予測を出しています。それから、酒造会社が個別に、仕込む前のお米を持ってくるので、その分析も行っています。
この予測技術は、酒造業にとって極めて有用なものなので、幅広く普及すべきだと考えています。ただ、高額の機械設備が必要なのと、技術的に手取り足取り教える必要があるため、現時点では、この予測を行えるのは、三重県工業研究所だけです。
普及啓発については、国の酒類総合研究所の研究会で講演を行っている他、県内外の酒造組合等の勉強会にも説明に伺っています。
小麦やじゃがいもへの応用
最後にもう一つ、とても重要なことがあります。
溶解性予測技術は、お米しか取り扱えないという技術ではありません。ものすごく応用が効きます。
お米だけでなく、デンプン作物と呼ばれている、とうもろこしや小麦、じゃがいも、さつまいも等も、同じ品種であれば、暖かい地域で生育した場合と、寒い地域で生育した場合では、米と同様に、デンプンの質自体が変わります。寒ければ溶けやすく、暑ければ溶けにくくなります。
とうもろこし、小麦、米など、デンプンを多く含む農作物は、どれも気候の影響を強く受けているわけです。
実際、大手の製粉会社もこの技術に関心を持って、当研究所を来訪されています。
製粉会社は、商品開発の時に、こんな小麦やこんなデンプンが欲しい、こんなデンプンを使えばこんな商品になるというようなアプローチをしたいわけです。ところが、もともとのデンプンの性質を正確に把握する技術というのがあまりなかったので、この技術を使えばかなり細かいところまで分かるということから、興味を持っていただいているのだと思います。
新品種の開発、気候変動対策への貢献
まだ、実績はありませんが、この技術は、新品種の開発にも利用できるはずです。
今後、気候変動によって、気温が上昇していった場合、多様な農作物で、高温に強い品種を作り出すことへのニーズは高まっていくでしょう。
米を含むデンプン作物で、高温耐性品種を開発する場合には、この技術が役に立つはずです。
新たに開発が期待される品種は、高温に強いだけではだめで、いままでと同様に美味しいとか、いままでと同様に加工できる等の性質を兼ね備えている必要があります。
酒造用の米を例にとれば、暑くても元気に育って、たくさん収穫できるけれど、まったく溶けない米では困るわけです。ある程度、溶ける米でないと酒造りには使えません。
同様のことが、他のデンプン作物についても言えます。
当たり前に聞こえるかも知れませんが、デンプン作物においては、デンプンの質が極めて重要です。デンプンの質を科学的に明らかに出来るこの技術は、どの苗を残して、どの苗と掛け合わせるかといった、ふるい分け(スクリーニング)に使えるだろうと思っています。
工業研究所の溶解性予測技術は、当初から、気候変動を念頭に置いたものではありません。
このままだったら、県内の酒造会社が良い品質のお酒を造ろうとしても造れないから、こういう技術があれば、対策の一つになるだろうという発想で開発しました。
しかし、結果として、開発された技術が高温耐性品種の開発に使われることで、農業分野の気候変動への適応に大きく貢献できるのではないかと考えています。